島根県松江市朝酌町の魚見塚古墳に隣接した市道脇から、奈良・平安時代の道路の一部が発見されました。
 この道は下の地図にある古代の山陰道(駅路)から枝分かれして、隠岐方面や宍道湖の北を東西方向に走りながら、古代の役所である郡衙(郡家)を結んでいた伝路と考えられています。


 現場は赤い線の古代山陰道から北に延びる黒い線の途中にあり、「魚見塚遺跡」と記されています。



 道を広げる工事をしようとしたのか発掘調査をしたところ、古代官道(国が計画的に造った)と推測される道路跡の一部が見つかり、現道の脇から側溝や波板状凹凸面が表れました。 (現地説明会の資料から)



 坂道の上から見下ろした所ですが、古代道の一部が見えています。波板状凹凸面と側溝があります。側溝は奥から手前に来て消えているように見えますが、右側の土の中に潜り込んでいます。 奥の反対方向へ伸びる側溝も、左側の現道の下に潜り込んでいます。側溝のある古代の道は、現道と平行ではなくて、角度を持っています。




 これもう少しアップで撮ったもので、左に側溝があり、次に道路部分があり、そこには波板状凹凸面があります。右側の浅い溝は発掘時に切り込まれたものです。古代の道路はさらに右側の方に広がっていて、幅6メートルほどの可能性があります。


           (現地説明会の資料から)
 古代道路に見られる波板状凹凸面と言われるものです。砂利を敷いただけの現代の砂利道と違って、コッペパン状の穴を掘った所に砂利を入れて、その上に黒い土を乗せていました。古代の道はこんな工夫をしていたのです。
 その理由はなぜなのかハッキリしていませんが、赤い土のローム層は滑りやすく、雨が降ると坂道などでは転んだりします。しかし黒い土は滑り難く歩きやすかったようです。下に砂利を敷くのは、水の流れで表面の土が流されてしまうのを防ぐ役割をしていたのかも知れません。


 道路左側の側溝は写真の奥から伸びて来て、現道の下へと潜り込んでしまいます。手前の方は色の判別が分かり難いのですが、向こうの側溝を延長して来ると何となく分かるかと思います。途中で水が溜まっている四角っぽい浅い穴が見えているのは現代に掘り込まれた攪乱の穴です。

                        
 図にしたもので、黄色が側溝で、桃色が波板状凹凸面で、青が砂利となっています。(現地説明会の資料から)                           
                                          
                              
 これだともう少し測溝がハッキリ見えて来ます。掘られてはいないものの中は礫(砂利)で埋まっています。その礫は側溝の外(写真の上の方)にも広がっているので、最初に造った道がその後に広げられたと考えられます。発掘担当の方に聞いた所、時代差は余りないそうです。



 攪乱(かくらん)された大きな浅い穴の斜め上に段差になった所があります。そこを見てみましょう。


 小さな石が敷き詰めてあります。平べったい石なので、この上を歩いたのかと思いきや、そうではありません。土層断面が見えますが、上に黒い土が乗っているのが分かります。この一番上の方を歩いたようです。
この黒い土は雨が降っても滑り難いそうです。黄土色のローム層は滑るので、坂道では更に滑りやすくなります。
 
 ここは図の中で言うと南区(調査中)の場所で、まだ掘り進んでいないが、側溝は写真上の方で現道の中に入り込んでいるので、側溝の外側になります。黒っぽい土が見えますが、当時の道路面に近いと思われます。恐らくこの下にも砂利が敷かれていると推測されます。

 現道の中に入り込んだ側溝を延長すると、左の平地へ抜けて正面の家に向かっています。その先には矢田の渡しがあります。

      (注:本文中の現道とは古代の道に対して現在使われている道のことを指しています。)

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